インド 机上再旅行
2015 (← 2002.12)
インドへは2002年12月下旬に訪れた。JTB企画の旅行で、催行が予め決められていたため、他に申込者がいなかったが実施され、ガイド付きで2人だけの旅行という優雅な経験をすることができた。
カメラは当時「デジカメ」で、撮影の設定ミスでほとんどが露出過剰という結果になり、非常に劣悪な記録しか掲載できなかった。主たる記録機材が8ミリムービーであったことも、結果の紹介が困難になった一因となった。
それから10年を超えた今日、写真補正の技術が多少進歩したこと、ムービーがMP4形式で、手軽に掲載できるようになったことから、再度、当時の旅行を振り返ることにした。Google Map と、ストリート・ビューによる周辺把握が容易になったことも、訪問先を確認するのに大きな助けとなった。
写真は、ずっと良質のものをインターネットから大量に見ることができるようになったが、ムービーによる説明や、風景などは、まだ掲載の価値があるのではないかと思われる。(今回の再掲載は、動画の紹介が主目的である。最初の掲載内容も、そのまま残している。)
ムービーは、その項目にカーソルを置いて、右クリックにより、動画ファイルをダウンロードし、MP4ファイルを扱えるソフト(VLC、Quick Time、Windows Media Playerなど)で再生することにより、見ることができる。パソコンの設定がうまくできている場合、該当項目をクリックするだけで再生できることもある。動画ファイルの大きさは、各項目の後に表示している。
(少しテストしたところ、Firefox や Safari のブラウザーでは、クリックだけで動画が開始できた。Microsoft の Internet explorer では非常に長い時間がかかり、実用的ではなかった。)
ご興味を持っていただけそうな内容を例示します。
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ガンジス川の沐浴 ムービー2:小舟で河を遡り、火葬場 Harishchadra まで
<動画> (右クリックでダウンロード 324MB、22分)
カジュラホ寺院 レリーフの説明
<動画> (右クリックでダウンロード 90MB、6分)
アンベール城 鏡の間
<動画> (右クリックでダウンロード 66MB、4.5分)
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歴史
この旅行で訪れた観光地が、歴史の中でどのような位置にあるのかを知ることが、観光対象の理解や興味を高める効果があると思われたので、訪問地と関連する(歴史の)部分を簡単に紹介しつつ、観光内容をリンクさせることを試みた。
BC2600年頃からBC1800年頃までの間に、インダス川流域(現在はパキスタンの中央を北から南へ流れている)にインダス文明が栄えた。
BC1500年頃にインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族等)がパンジャーブ地方(デリーの北西約300km)に移住。後にガンジス川流域の先住民を支配して定住生活に入った。彼らはヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化して、ヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に、当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。
インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。現在、ヒンドゥー教の信者は、インド人口の80%前後を占めている。
ヒンドゥー教では河川崇拝が顕著であり、水を使った沐浴の儀式が重要視されている。特にガンジス河(ガンガー)は川の水そのものがシヴァ神の身体を伝って流れ出て来た聖水とされ、川自体も女神ガンガーであるため「母なる川ガンジス」として河川崇拝の中心となっている。ガンジス川添いには沐浴場(ガート)が設けられた聖地が点在する。ヒンドゥー教徒は、沐浴場に設けられた石の階段を下りて川の水に頭までつかって罪を清め、あるいは水を飲む。
ワーラーナシー(バラナシ。ベナレスは誤読)は、ヒンドゥー教における七聖都、三祖霊供養所の両方に名を連ね、インド国内外からも多数の人々が大勢やってくる大巡礼地である。ガートという階段状の沐浴場があり、ガンジス川の西岸、約 6.4 ㎞間に 84 のガートが建設されている。
仏教の保護と弾圧
仏教は、BC5世紀にインド北部ガンジス川中流域で、釈迦が提唱、誕生した(初期仏教)。
BC317年、最初の統一国家、マウリヤ朝マガダ国(都は現在のパトナ:ヴァラナシの東約200km)が成立、しかしBC232年頃、仏教を擁護したアショーカ王が死去すると、マウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に。AC5世紀に、グプタ朝が北インドを統一し、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。一方、5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入、繁栄、仏教弾圧によってグプタ朝は衰退し、550年頃に滅亡した。
8世紀後半、3つの分立王朝の1つ、ベンガル・ビハール地方のパーラ朝が後期インド仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現バングラデシュ)が建設された。しかし、6世紀にインド南部で始まったヒンドゥー教改革運動のバクティ運動や、12世紀にアフガニスタンからのイスラム教政権(ゴール朝)のインド侵略で、インドの仏教徒は壊滅状態となった。現在、インドの仏教信者は1%未満である。
** サールナート
サールナートは、釈迦が悟りを開いた後、初めて説法を説いた地とされる初転法輪の地。ワーラーナシーの北方約10kmに位置する。
群雄割拠の時代
インドの国土は広大なため、1つの王朝が全体を支配することは至難であり、日本の戦国時代と同様に、複数の王朝が競いあう時代が続いた。その間、イスラム勢力の侵攻がしだいに強くなり、ついにはその支配下にくだることになるが、そこに到る7世紀から13世紀までの、群雄割拠の時代はラージプート時代と呼ばれる。
ラージプート諸王朝としてはプラティハーラ朝、パラマーラ朝、チャウハーン朝、チャンデーラ朝などがあるが、その中でも8世紀から11世紀初頭まで北インドを広範に支配した大きな王朝が、プラティーハーラ朝(都カナウジ)である。
7世紀から10世紀にかけて、北インドを支配したプラティーハーラ朝とベンガル地方のパーラ朝、デカン高原のラーシュトラクータ朝の三つの国が抗争を展開する。
同時期に、イスラーム勢力のインド進攻が711年から始まる。ウマイヤ朝、サーマーン朝やホラズム朝などのイスラム王朝が、何十回もインドへ進攻してくるが、ラージプート諸国はよく戦い、その東進を阻んだが、ラージプート諸侯の独立によって次第に結束が弱体化した。
アフガニスタンから侵攻したイスラム教国ガズナ朝によって、プラティーハーラ朝は1019年に滅ぼされた。次にラージプート諸国のチャーハマーナ朝が北インドで有力となったが、1192年、イスラーム教国ゴール朝に敗れ、1206年に奴隷王朝が成立してラージプート時代は終わった。
10世紀から、ラージプート王朝のチャンデーラ朝がカジュラーホーを建設した。ヤショーヴァルマン (在位:925年 - 950年)は、ヴィシュヌ神にささげる宮殿として、首都カジュラーホーにラクシュマナ寺院を建設した。1002年にダンガ王はヴィシュワナータ寺院を建設し、後にパールシュワナータ寺院を建設した。ラクシュマナ寺院などは男女合歓のレリーフ群で有名である。
イスラムによる支配
11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラムの諸王朝が北インドを支配するようになった。13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝、マムルーク王朝、1206年 - 1290年)を興してデリーに都を置き北インドを支配した。(マムルークとは解放奴隷を意味する。イスラーム世界では奴隷を解放する事は善行とされて盛んに行われ、解放された奴隷は元主人の忠実な家来となったため、忠実な家来を得るために奴隷を買い求める事が行われた。騎馬民族がむしろ栄達のために子弟を奴隷商人に売り渡した経歴を持つ。そのため本来の奴隷とは全く異なる存在である。)マムルーク王朝は、マムルーク出身の、3人の君主(スルターン)の子孫たちが相次いで支配者となった。
** クトゥブ・ミナール
奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、1200年ごろに、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。
16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝)を倒して ムガル帝国を建立した。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国(1526年 - 1858年)となった。
バーブルの死後、後を継いだフマーユーンは、スール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、ムガル朝は一時崩壊した。フマーユーンはイランのサファヴィー朝の支援を受けて、1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還した。その後、シェール・シャー死後、内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年にデリーに返り咲き、ムガル帝国を再建した。しかし1556年に不慮の事故死を遂げた。
** フマーユーン廟
フマーユーン死後の1565年、ペルシア出身の王妃、ハミーダ・バーヌー・ベーガム(ハージ・ベグム)が、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設した。
ムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展させたのは、フマーユーンを継いだアクバルの治世である。アクバルの統治方針は、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底であった。そのため、アクバルの政府にはシーア派のペルシャ人、アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリム、ラージプート、バラモン層、さらにはマラーター人までが参画していた。
また、ラージプートなどの在地勢力を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした。また、アクバルはイスラーム以外の宗教に対しても寛容であったことが知られ、1564年にムスリム以外に課せられるジズヤの廃止も行った。
アクバルは東はベンガル、南はデカン高原まで進出して、北インドのほとんど全域を平定した。アクバルの他宗教への寛容性と完成された官僚制は息子、ジャハーンギールに引き継がれた。
ムガル帝国第3代皇帝アクバルが、デリーからアーグラへ遷都したことにより、アクバルが1565年に着工して1573年に完成させた。その後ジャハーンギール、シャー・ジャハーンまで3代の居城となった。
** ファテーブル・シークリー
皇帝アクバルが、王子サリーム(のちのジャハーンギール)が誕生したのを記念して、アーグラの西、約40kmにあるファテーブル・シークリーに新たな都を造り、アーグラから遷都した。しかし、慢性的な水不足と猛暑のため、わずか14年間(1574年~1588年)しか使用されず廃墟となった。
ムガル帝国はアクバルの活躍した16世紀後半から、その子孫たちが統治する17世紀末にかけて最盛期を迎えた。だが、領土の拡大に関しては、各方面で一進一退を繰り返した。
ジャハーンギールの時代は、ラージャスターン地方で抵抗していたメーワール王国の征服に着手したが、果たすことができず、その半独立的な地位を認めた。
1628年、父ジャハーンギールの死亡により、シャー・ジャハーン(在位1628 - 1658)が皇帝として即位すると、1633年にアフマドナガル王国を滅ぼすことに成功した。1636年には、ビジャープル王国と講和を結び、その旧領を分割した。
** タージ・マハル
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟。
シャー・ジャハーンの治世は、息子たちによる血生臭い王位継承戦争によって終わり、1658年に勝利した第6代皇帝アウラングゼーブによって、父シャー・ジャハーンはアーグラ城のタージ・マハルの見える部屋に幽閉された。アウラングゼーブは曾祖父アクバルから受け継がれてきた宗教融和を否定し、シャリーア(イスラーム法)による統治を行い、1679年にはジズヤを復活した。
統治方針の変更の結果、各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール王国・メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(後にマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国ビジャープル王国(1686年滅亡)・ゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。
しかしアウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と、異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。
現在のイスラム教徒は、インド人口の12~15%である。
** アンベール城
アンベールは、ラージプート族のカチワーハ家の王国・アンベール王国の首都であった。ムガル帝国の第3代君主アクバル1世は、1562年にアンベール王の娘と結婚してアンベール王国と同盟したのを皮切りに、アンベールをはじめとするラージプートの王侯を次々に連合して傘下に加えていった。
もともと城砦があった場所に、1592年から、ラージャ・マーン・シングによる大規模なアンベール城築城が始められた。1727年に、約11km南西のジャイプルへと遷都するまで改築が続けられた。遷都は、人口増加や水不足の理由から必要に迫られ行われた。
** ジャイプル & ジャンタル・マンタル
1727年11月18日、ラージプート族のカチワーハ家・アンベール王国の当主、サワーイー・ジャイ・シング2世によって、新たな計画都市として建設された。
ジャイプル藩王国(カチワーハ家・アンベール王国)の藩王(マハーラージャ)は、イギリスがインドの大部分を植民地化したイギリス領インド帝国時代においても、イギリスに対して一定額の税金を納めるなど間接的な形で従属することを余儀なくされつつも、領地の自治権は保証されていた。そのため、デリーやアーグラーなど、ムガル帝国の直轄領を経てイギリス領インド帝国の直接統治下に置かれた都市に比べ、インド的な雰囲気をより強く残している。
ジャンタル・マンタル (Jantar Mantar)は、ジャイプルにある天文台(ヤントラ・マンディル)。天文学者でもあったマハーラージャ・ジャイ・シング2世によって、1728年から1734年に建てられた。
インドの植民地化
16世紀初頭から、ヨーロッパ各国の海洋覇権競争が激化し、インドはインド洋の制海権を奪われ、植民地化が進行していった。数多くの戦闘の後、イギリスがムガル帝国を滅亡(1858年)させ、インドの藩王国による間接統治体制に入ったが、飢饉の多発により、藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府は、インドの直接統治体制に切り替え、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。
現在、キリスト教徒の人口比率は2~7%程度である。
インドの再独立
イギリスの統治下において、安定した統治のためイギリスはさまざまな対応を試みたが、独立運動の火は消えることなく、1919年からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動が大衆運動にまで広がり、1930年には塩の行進が行なわれた。
1945年、インド国民軍の将兵を国王に対する反逆罪で裁判にかけたことが大きな反発を呼び、各地で暴動が勃発した。イギリスのアトリー内閣は、インドをこれ以上植民地下に置くことはできないと判断し、独立を容認することとなった。
独立当初はイギリス国王を君主に戴く英連邦王国(インド連邦)であったが、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム国家パキスタンが分離独立された。
ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、ヒンドゥー至上主義の活動家によって、1948年1月30日、マハトマ・ガンディーが射殺された。
1949年11月26日にインド憲法が成立し、1950年1月26日に共和制に移行した。
** ラージ・ガート
ラージ・ガート(Raj Ghat)は、インド独立の父マハトマ・ガンジーを記念して造られた公園。1948年、デリーで暗殺されたガンジーを茶毘に付した場所が、この公園の奥にある。
感想
再編集を試みることによって、インドの歴史の概要を知ることができた。そこで印象に残ったのは、ムガル帝国第3代、アクバル皇帝の「寛容」という統治方針であった。偶然にも、最近(2015年10月)テレビで放映された「ローマ帝国」という番組を見て、ローマが1,000年にもわたって持続した理由の一つが「寛容性、抱合性」というキーワードではないかという指摘であった。日本にも「清濁併せ呑む」という言葉があるが、優れた統治に必要な一条件として、示唆を受けた。
ちなみに、アメリカ短期滞在中に知ったことであるが、アメリカの大学では、歴史の教科書として「ローマ史」が使われている例が多い。なぜ?という疑問を持ち続けていたが、上記のテレビ番組の中で、ローマ史には、人類が経験してきた、ほとんどすべての事例が含まれている、という解説を聞いて、納得できた。日本でも、このような歴史の教え方をして欲しいものである。
第2の印象として感じたのは、インド旅行で訪れた遺跡の大半が、イスラム勢力の統治下で建設されたものであるという点である。(観光対象となる)インド古来からの遺跡が相対的に少ないのはなぜだろう?
第3の印象は、カースト制度の根深さである。政府は教育によりカースト制度の打破に注力しているようであるが、仮に教育が浸透したとしても、経済力の裏打ちがなければ実効は上がらないであろう。アフリカや中東に目を向けると、経済力の低さだけが格差発生の唯一の要因では無いようにも思える。正しく絵説きをしてくれる人はいないのだろうか。
その他の記録映像
・カジュラホにて (Tridentホテル、インドの民族舞踊観賞)
・ガイドの自宅へ(アグラ)
・紅茶販売店で(ニューデリー)
<動画> (右クリックでダウンロード 8MB、0.5分)
車窓から見たインドの風景
2002年当時の、インドの一般住民の日常生活を、道路沿いに、車窓から記録したものである。道路状況、風俗などに関心をお持ちなら、参考となるかも知れない。
乗用車からの撮影なので、バスの車窓からとは、少し目線の違いがある。
動きが激しいので、見るのに疲れるが、スロー再生のソフトがあると、移りゆく風景を楽しむことができる。スロー再生が可能なソフトの一例として「VLC」(無料)がある(Google で「VLC」を検索すると容易に見つかる)。
(バラナシ空港?から)サールナートまで
<動画> (右クリックでダウンロード 226MB、16分)
ホテルから空港まで(バラナシ)
<動画> (右クリックでダウンロード 8MB、0.6分)
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ジャイプール市内1・ゲートからジャンタル・マンタルまで
<動画> (右クリックでダウンロード 77MB、5.3分)
ジャイプール市内2・ハワー・マハルから絨毯工場へ
<動画> (右クリックでダウンロード 79MB、5.3分)
ジャイプール市内3・表通りを外れた風景
<動画> (右クリックでダウンロード 133MB、9.1分)
<動画> (右クリックでダウンロード 177MB、12.1分)
<動画> (右クリックでダウンロード 39MB、2.7分)
ニューデリー市内2・クトゥプ・ミナールへ
<動画> (右クリックでダウンロード 45MB、3.1分)
ニューデリー市内3・クトゥプ・ミナールから市内へ
<動画> (右クリックでダウンロード 52MB、3.5分)
ニューデリー市内4・庶民の生活など
<動画> (右クリックでダウンロード 123MB、8.4分)
ニューデリー市内5・インド門、国会議事堂、大統領官邸など
<動画> (右クリックでダウンロード 98MB、6.7分)