九寨溝・黄龍 旅行 その2

2010.11

 

杜甫草堂

 

http://homepage2.nifty.com/yama56/chengdu2.htm

 杜甫といえば詩聖として,李白と並び称される唐代の大詩人です。彼が生存中は詩人として有名でなく、生活は貧しいものだったようです。

 「安史の乱」を避けるため、乾元二年(759年)12月、杜甫は長い苦しい旅の末に成都にたどり着きました。ここで杜甫は、友人の高適や親戚の杜済などにも会い、友人の援助を受けて、錦江の西、浣花渓(かんかけい)のそばに空地を得て、茅ぶきの家(草堂)を設けます。これが今日の杜甫草堂の始まりです。765年(54歳)に草堂を去るまで、成都で、約4年暮らしました。その間、生涯に亘っての詩の六分の一にあたる240余りの詩を書いたそうです。

 後年、成都の長官・厳武の後押しで役人(検校工部員外朗という官職->杜工部[工部祠]とも呼ばれるゆえん)となったが性にあわず辞めています。当時の杜甫の生活ぶりは、厳しいものであったようで、その様子は彼の詩からもみられます。しかし、とにかく流浪の旅を続ける杜甫にとって、この草堂は、心休まる場所だったと思います。このころの詩には、自然を歌詠した、愛すべき絶句があります。これは従来の彼には見られなかったものです。

 藁葺きの屋根があり、中に「少陵草堂」いう清代に立てられた石碑が見えます。「少陵」とは杜甫が以前に住んでいたところの地名です。杜甫がよく詩の中に「杜少陵」「少陵野老」と自称していたことから「杜甫草堂」は「少陵草堂」とも呼ばれております。その屋根となっている藁葺きは当時の杜甫の家の茅葺きと同じにするよう造られたもので、石碑と一緒に「杜甫草堂」のシンボルとなっています。

 

http://www.cddfct.com/dufu_for/html/info/show_info_0_w1_0_2_jp.html

 成都浣花渓畔に位置する杜甫草堂は唐代、大詩人である杜甫の成都寄寓時の旧居である。西暦759年冬、杜甫は「安史の乱」を避け、蜀に入り、草葺の家を造って住む。それは「成都草堂」と呼ばれている。杜甫は前後してここに計4年住み、そこで創作した詩歌は今に伝わっているものでも240首余りある。

 草堂旧跡内に、照壁、正門、大廨、詩史堂、柴門、工部祠が1本の線上に配列されており、左右対称の回廊と両側にその他付属建築が配置されている。その間には流水がめぐり、小さな橋が連なり、竹林が茂り、荘厳かつ古風質素、静か、また清朗な雰囲気を醸し出している。工部祠の東側に「少陵草堂」碑亭があり、杜甫草堂の代表的景観、また成都の著名な観光地点となっている。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/杜甫

 杜甫の詩の特徴として、社会の現状を直視したリアリズム的な視点が挙げられる。杜甫は当時の士大夫同様、仕官して理想の政治を行いたいという願望から、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、同時代の親友である李白の詩とは対照的な詩風を生み出した。後世「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢は、後の白居易の諷喩(風諭)詩などに受け継がれてゆく。

 絶句を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れているという評価が一般的である。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする。

 安史の乱前後、社会秩序が崩壊していくさまを体験した頃の詩は、政治の腐敗や戦乱の様子を悲痛な調子で詳細に綴った内容のものが多い。この頃の代表作として「春望」「三吏三別」「秦州雑詩」がある。

 比較的穏やかな生活を過ごせた成都時代では、それまでの悲しみや絶望感に満ちた詩にかわって、自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られている。また諸葛亮を讃えた名作「蜀相」なども詠われている。

 成都を去った以後の最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証であり、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地に達した。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇あるいは国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なる、ある種の荘厳な趣を持つようになる。この時期の代表作としては「秋興八首」「詠懐古跡五首」「登高」「登岳陽楼」などがある。

 

 春望

國破山河在  国破れて山河在り
城春草木深  城春にして草木深し
感時花濺涙  時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心  別れを恨んで鳥にも心を驚かす
烽火連三月  烽火 三月に連なり
家書抵萬金  家書 万金に抵る
白頭掻更短  白頭掻けば更に短く
渾欲不勝簪  渾て簪に勝えざらんと欲す

 国家(唐の国都当時は長安)は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、城内(長安)では春が訪れ草木が青く茂っている。時世(戦乱の時期)の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。幾月が経ってものろし火(安禄山の乱による戦火)は消えることはなく、家族からの手紙は万金にも値する。(心が痛んで)白い頭を掻けば掻くほど髪の毛が抜け落ち、まったくかんざしを挿せそうにもないほどだ。

 

 

 正門

入口 vv3433

 

後方に「大廨」が見える  vv3432

 

正門裏側の壁に vv3426

 

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 大廨

正門から大廨へ vv3439

 

杜甫像 vv3441

 

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側面にある丸窓 vv3442

 

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 詩史堂

大廨から詩史堂を見る vv3447

 

杜甫像 vv3449

 

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杜甫像 vv3453

 

新松恨不高千尺 vv3454

新松(しんしょう) 高きこと千尺ならざるを恨む

(優れた人材はなかなか育たない)

 

悪竹応須斬万竿 vv3457

悪竹は応(まさ)に須(すべか)らく万竿を斬るべし

(諂いですぐに出世する俗物役人は世に弊害を及ぼすのですべからく排斥すべし)

 

大廨を振り返る vv3462

 

 柴門

詩史堂から柴門を見る vv3464

 

上図、右にある案内板の部分 vv3465

 

柴門手前の橋上から vv3466

 

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 工部祠

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検校工部員外朗という官職は現在の「係長」級 vv3478

 

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杜甫肖像 vv3470

 

工部祠についてガイドの説明を聞く vv3475

 

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 少陵草堂

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 東側の庭園・散策路

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草堂書斎付近 vv3499

 

竹の密植 vv3501

(日本では珍しい?)

 

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楊貴妃? vv3510

 

貴重な陶器の破片を用いている vv3513

 

毛沢東が来訪したことが重要 vv3511

 

出口付近 vv3516

 

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