プラハ・ドレスデン・ベルリン クリスマスの旅 その1

2014.12.08-16

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プラハの概要

 プラハはチェコ共和国の首都、人口は約120万人。

 ボヘミアは、古くは、ポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指す言葉であるが、プラハは、その首都として機能してきた。

 紀元前9年、大ドルスス率いるローマ軍団がマルコマンニをボヘミアに追いやった。トイトブルク森の戦いには参加せず、強大化したマルコマンニはマルクス・アウレリウスとコンモドゥスの治世下でマルコマンニ戦争(162年 - 180年)を起こし、ローマ帝国衰退のきっかけとなった。

 6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)河畔に集落が形成された。(567年、アヴァール<5~9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族>がパンノニア平原にアヴァール可汗国を建国すると、その侵攻を逃れて、6世紀以降、西スラヴ人が移住し、モラヴィアの西スラヴ人とともに現在のチェコ人となった。)

 チェコの守護聖人として知られるヴァーツラフ1世(907 - 935年)は、聖ヴィート大聖堂の始祖となる聖堂を建造、宣教師をドイツから招くなど、キリスト教化を進める政策を採った。ボヘミアは西ヨーロッパ世界の一員となり、西からの軍事圧力を緩和し、キリスト教布教の援助を得て国内支配の強化を進めることができた。しかし、この政治方針を良しとしない弟ボレスラフらにより殺害された。

 973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。(キリスト教の定着と、ユダヤ人の定着に、どのような関連があるのか?)

 ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめていた時期がある。1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世の時代になると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展した。

 ヴァーツラフ4世の治世(1361 - 1419)、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半にハプスブルク家のアルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派はその支配下に入った。

 16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。

 1618年にプラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止、宗教弾圧、文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代が生じた。

 18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にはプラハ市民によるオーストリアに対する蜂起がおこるが失敗した。

 第一次世界大戦終結後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。1922年初頭に、37の自治体を合併し、人口は676,000人となった。

 1938年、ナチス・ドイツによって占領され、チェコスロヴァキアは解体された。第二次世界大戦中には、ここに居住していたユダヤ人約5万人がナチスによって殺害された。

 プラハは他の東欧中欧の都市のような大規模な戦火に曝されることはなかったが、1945年2月14日にはアメリカ軍爆撃機60機による絨毯爆撃が行われ、1800人を越える死傷者が発生、数百の家屋や歴史的建造物が損なわれた。ソビエト赤軍侵攻時には、旧市街広場にある「天文時計」で有名な「スタレー・ムニェスト旧市庁舎」の建物の一部が、1945年5月7日から8日にかけてのドイツ軍装甲車両や高射砲の砲撃の被害を受け、未だに一が失われたままである。

 第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。 1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧された。1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。

 プラハは、千年の歴史を持つ都市であり、第一次・第二次世界大戦の被害にも、また、その後の資本主義の高度経済成長にも巻き込まれなかったことで、ロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ 「ヨーロッパの建築博物館の街」 になり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。

 

 <今回の観光>

 観光の初日は「王の道」とカレル橋が主対象となった。「王の道」とは、13世紀から19世紀までの約380年の間、歴代の王たちが戴冠パレードを行なったプラハのメインストリートにあたる。ほとんどが徒歩による観光となった。2日目はプラハ城とストラホフ博物館、ヴルタヴァ川の遊覧が主たる内容である。

 

 プラハ東部map

 

ホテルから「王の道」入口(火薬塔)まで

 (地点01)から(地点06)まで、約20分の徒歩移動。

 

エステート劇場(地点05) DE_07404

モーツアルトがドン・ジョバンニを初演した所

 

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道路をまたぐ渡り廊下は、いつごろの建造? DE_07412a

 

歴史的建造物の1つ? DE_07414

 

上図の部分拡大 DE_07413

 

中央に見える塔の上部は、市民会館のもの DE_07419

 

火薬塔

 旧市街を守っていた城壁の門のひとつで、1475年に建立(ゴシック様式、高さ65m)、17世紀に火薬倉庫として利用されたのが呼称の由来。18世紀の半ばに戦災で被害を受け、現在の建物は、19世紀末に修復された。

 ゴシックの終期、ルネサンスの初期、両方の建築様式の特徴や飾りを見ることができるとのこと。

 

火薬塔(地点06) DE_07426

 

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西方向を見る DE_07445

 

ゲートを通り抜けて振り向いた所 DE_07451

 

付近に、観光用の車の宣伝 DE_07452

 

もとへ戻って、右が市民会館 DE_07421

(市民会館との連絡廊下)

 

チェコ文字は読めない DE_07446

 

市民会館

 優美で繊細なアールヌーヴォー様式の建物。かつて歴代の王の宮廷があったが、17世紀後半の大火事で焼け、1911年に二人の建築家の合作で、現在の市民会館が完成した。

 内部には有名なスメタナ・ホールがある。このホールで音楽祭「プラハの春」が開かれる。その他、展示会場、レストラン、カフェなどがある。ミュシャの内装が感動的とのこと。

 

市民会館(地点07) DE_07429

 

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正面のモザイク:「プラハ感謝」というタイトル DE_07437

 

ミラノのガッレリアに同じ様式のモザイク画あり DE_07431

ミラノのガッレリアのほうが建立時期が古いので、

手本としたのでは?

または、同じ様式のモザイク画が多数あるのかも知れない

 

火薬塔から旧市街広場まで

  (地点06)から(地点12)まで。

 

火薬塔(観光の始点) DE_07453

 

火薬塔を通り抜けて、西(旧市街広場方面)へ DE_07447

「王の道」(ツェレトゥナー通り)を辿る

 

上図の右部分。Leiser 靴屋 DE_07448

 

ツェレトゥナー通りを西へ進む DE_07455

 

西欧でよく見かける像(どちらが元祖?)(地点09) DE_07456

Helena Bendová , 587/36, 110 00 Praha-Staré Město 香水専門店?

 

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振り返ると火薬塔 DE_07719

 

ツェレトゥナー通りを進む DE_07463

 

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道の左手(南側)。説明内容は忘却 DE_07467

 

右手にティーン教会(地点10)が見えてきた DE_07469

 

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右手に旧市街広場(地点12)が DE_07474

正面は旧市庁舎(地点13)

 

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