プラハ・ドレスデン・ベルリン クリスマスの旅 その19

2014.12.08-16

写真クリックにより拡大

ドレスデン その1

 

 ドレスデンの位置(地図)

 

 ドレスデンは、ドイツ、ザクセン州の州都、エルベ川の谷間に位置する人口50万人あまりの都市である。1200年頃に世界の歴史に記されるようになった。

 ドレスデンが最も発展したのは、フリードリヒ・アウグスト2世(アウグスト強王)の時代(1711~1728年)である。

 ちなみに、周辺都市が最も栄えた時期を年代順に並べて見た。

プラハ: 14世紀後半、カレル4世のとき、神聖ローマ帝国の首都

ウィーン: 16世紀前半、カール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築く

スペイン: ハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期

フランス: ルイ14世の治世時(1643~1715)

マリア・テレジア: 在位1740年 - 1780年

(どんな理由で?と興味が湧いたが、体力が続かず)

 

 アウグスト2世は、宮殿、橋などの増改築、美術品の収集などを精力的に行い、マイセン磁器の開発を実現させたことでも有名であるが、秘密保持のために開発者を束縛したり、100人を超える私生児をもうけるなど、好ましくない振る舞いでも知られている。「強王、Mocny, strong 」という綽名は、素手で蹄鉄を捻じ曲げる怪力の持ち主であったことに由来するとされる。政治、外交手腕への評価は高くない。

 アウグスト2世を「フリードリヒ・アウグスト1世」として説明されていることもあり、混乱させられるが、後者は、ザクセン選帝侯としての名称である。選帝侯とは、神聖ローマ皇帝を選挙する特権をもった諸侯を指す。

 ドレスデンを代表する建築:ツヴィンガー宮殿(Zwinger)は、アウグスト強王が、ダニエル・ペッペルマンに命じ、1711年から1728年に、城から近い場所に自らの居城として後期バロック様式によって建立させた。同時に、エルベ川の10キロほど上流にあるピルニッツ宮殿も、大幅に増築された。市の中心部では、1726年に聖母教会(フラウエン教会)の建築が開始された。こうして形成されたドレスデンの町並みは、18世紀中期の姿がベルナルド・ベッロットによる絵画として残されている。 『アウグスト橋下流のエルベ川右岸から見たドレスデン

 類例

 1806年に神聖ローマ帝国が解体し、ザクセン王国が成立した後は、ドレスデンはその首都となった。

 ドレスデンに到着した夕方は雨。

7s_01305

 

しっとりとした市内風景 7s_01310

 

聖母教会界隈

 宿泊ホテルが聖母教会の近くだったので、まずこの周辺を紹介する。

 

 ドレスデン市内map (記号は、以下の説明で、地点を示すために使用)

 

 聖母教会(フラウエン教会)は、ルター派(プロテスタント)のバロック様式大聖堂として、ドレスデン市の大工長ゲオルク・ベーアの設計で、1726年から1743年にかけて建築された(彼は最高傑作の完成を見ることなくこの世を去った)。選帝侯の資格を得るため、アウグスト強王がプロテスタントからカトリックへ改宗していたにも関わらずという点が注目される。

 教会の大きさは、高さ91.23m、縦方向50.02m、横方向41.96mである。外観で最も特色があるのが型破りなドームで、直径が底部で26.15mあり、上部は約10mで、「石の釣鐘」と呼ばれた。1,200トンの砂岩製ドームは、内部からの支えはなかったが、きわめて安定していることが証明された。1760年には、プロイセン軍による100発以上の砲弾を跳ね返し、危機を切り抜けた。

 200年以上もの間、ベルの形をしたドームは古都ドレスデンの象徴として、そびえ立っていた。

  1880年当時のフラウエン教会

 1945年2月13日、英米同盟軍によるドレスデン爆撃が開始され、聖母教会は二昼夜の攻撃に耐え、巨大なドームを内側から支える8本の砂岩製の柱は、都市に投下された約650,000の焼夷弾の熱に曝される中、地下聖堂に避難してきた300人が退避するまで持ちこたえた。教会の周囲と内部の温度は摂氏1000度に達したとされる。爆撃が終了した 2月15日午前10時、ドームの柱が真っ赤に輝き爆発し、外壁は粉々になって、ドームはついに倒壊した。た。6,000トン近い石材が崩れ落ちて堅牢な床を貫通し、床自体も陥没した。

 ドレスデン爆撃は、「東からドイツに攻め寄せるソ連軍の進撃を空から手助けする」という名目の下、イギリス空軍の主導で実施され、4度におよぶ空襲で延べ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人ともいわれる一般市民が死亡した。

 防空壕で発見された女性の死体   防空壕内でミイラになった犠牲者

 実際には戦争の帰趨はほぼ明らかになっており、戦略的に無意味な空襲であるという批判の声が定着している。

 大戦後45年間、瓦礫は積み重ねられたまま放置されたが、その後、復元への機運が高まり、瓦礫の個々の部品の特定にコンピュータを駆使するという技術的支援を元に、2005年に復元が完成した。

 

宿泊したホテル(地点A4)の正面 DE_08141

 

ホテルの前にある、アウグスト2世の像(地点A3) DE_08143

 

ホテルの前から見える聖母教会 DE_08139

 

DE_08140

 

(撮影時間帯が上と異なる) 7s_01554

 

(地点A2)付近から DE_08145

 

(地点A2)付近から北方向を見る DE_08146

 

聖母教会(地点A1) DE_08147

 

(地点A2)付近から広角で DE_08149

 

DE_08158

 

マルティン・ルター像(地点A2) 1885年の製作 DE_08148

爆撃を生き延びた、彫刻家アドルフ・フォン・ドンドルフの作品

 

教会頂上のドーム DE_08151

十字架は、爆撃に参加した航空機搭乗員の息子が寄贈

内部の「こんぺいとう」はクリスマスの飾り

 

左がThe Johanneum (地点A9)から DE_08156

16世紀後半に建立。Verkehrsmuseumへの接続口

 

 

聖母教会の西面 DE_08159

 

(地点A5)付近から見た聖母教会 DE_08160

 

(地点A5)付近から(地点A6)方向を見る 7s_01537

ドームは博物館

 

上図の右端にある大砲 7s_01547

 

7s_01550

 

(地点A6)付近から聖母教会を見る 7s_01551

 

朝、ホテルの部屋から南方向を見る 7s_01523

 

ホテルの部屋から(地点A7)を見る 7s_01524

 

爆撃跡の発掘(地点A8) 7s_01526

 

(地点A8) 7s_01552

 

(地点A8) 7s_01553

 

次へ