ピレネー・バスク地方 (その15)

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サン・ジェスト・バジリカ聖堂

 

サン・マリー聖堂との位置関係

 

 サント・マリー大聖堂から少し東に、ヴァルカブレールのサン・ジュスト・バジリカ聖堂が建っている。ローマ時代の古代地下墳墓跡の上に建てられたロマネスク様式の教会で、数多くの古代の資材を再利用して建設されたことが大きな特徴となっている。

 聖ジュストと聖パストゥールという殉教した二人を名義聖人として捧げた教会で、丘の上にサント・マリー大聖堂が建つまでこの教会が司教座教会だった。

 サン・ジュスト・バジリカ聖堂は「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の⼀つとして1998年にユネスコ世界遺産に登録されている。

 

入口 7s_08319

 

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カロリング時代に建てられた修道院の遺構を利用したという頭部、

巨大な外部ニッチが珍しい。

 

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壁に埋め込まれたローマ時代の石像群 7s_08333

 

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墓地が印象的

 

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インターネットで見付けた文章から(アドレス紛失)

 

夏の日、南仏の「サン・ジュスト教会」で見た美しい墓地のことを思い浮かべていた。それは、ゆるやかな丘陵を遠景に、目もくらむかがやかしい光を浴びて、葉裏を光らせる、とうもろこし畑のまん中の、糸杉にかこまれたロマネスク墓地教会であった。さわやかな風がぬけてゆくその墓地は、白い重厚で簡素な教会を前に、赤い野生化した薔薇が、傾きかけた灰伯の十字架の間に咲き乱れていた。この死者の国は、翳りなく、透明で美しかった。そこにはまぎれもなく「自然」があり、それと「死」が調和しているかたちであった。「光」と「死者の国」が向いあっている感じであった。

響庭孝男、石と光の思想、78ページ、平凡社、1998年

 

それは明るい日の光の下で、人々を沈黙にさそい、死への思いを透明にさせるところがあった。古代的でありながら、神秘を内部にやどし、翳りなく美しかった。この地方をいろどるガロ=ロマンの文化の上にローマ文化が重なり、さらにその上にキリスト教文化が、こうして重い堅固な物質性をそなえて立っている。

同、111ページ

 

このピレネーの印象はセヴラックの音楽にも通じる。舘野さんは『ラングドック地方にて』を弾きながら次のような印象をもった。死さえも、また生き返り蘇るための準備にすぎない。

ひまわりの海、9ページ、求龍堂、2004年

 

ジャンケレヴィッチはエッセーの中でセヴラックの『大地の歌』について触れたときに、骨折りの種である耕地の土でさえ――耕地の土であって不毛の砂ではない――もはや中身の詰まった固体のようには見えず、大気のように翼あるものとなり、水のようにとらえどころのないものとなるのである。

デオダ・ド・セヴラックについての二つのエッセー(一)

遥かなる現前、151ページ、近藤秀樹訳、春秋社、2002年

 

 

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 家族や先祖が同じ墓地に埋葬され、新しい花々で飾られているのは非常にうらやましい光景であるが、我々の周辺では「墓じまい」の方が話題にのぼることが多い。(昨年、屋久島を訪れたとき、墓々へのお参りの多いことが記憶に残っているが、この地の墓々はさらに心が込っているようである。)

 このような墓地が可能なのは、家族農業による共同生活と密接に関連しているのではないかという仮説が芽生えた。しかし、ウィーンの中央墓地では、この地と同様の墓も数多く見学した。

 核家族化が心の連帯を希薄化させている一要因であることは間違いないと理解しているが、どうすれば他者への思いやり、心の豊かさを取り戻せるのだろうか。

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